湘南色はかぼちゃ色
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個人情報ダダ漏れな気もするが



もとよりブログなんて露出狂趣味みたいなものなので―――



役職とかバイトとかで、何故それを選んだのか、何が楽しくて、何が嫌だったのか書いてみるテスト



◆学級委員
・なんか先学期、立候補者いなくて決めんのに時間かかったし俺が立候補すりゃみんな幸せじゃね?
・楽しいことなんてありませんでした。(il´Д`)
・ともかく話力がなかったのでまとめることができませんでした。小学生だったし。


◆ソフテ
・ベルギーいた頃テニスやってたから。でも軟式なんて初めてでやりにくいのなんの。
・部員は全員上級生女子。基本的に年上にいじられるのはなれてました。(ベルギー時代がそうだったので)
・不人気で女子しかいないテニスやるあいつは変態だろ的扱いをかわすことができなかった。
 6年の時、下の学年の子が同じようなことしてて少し安心した。


◆放送委員
・放課後17時の放送で【本日の放送を終了します】っていうのマジかっけぇ。やりてーー
・異例の2年連続放送委員で放送室のヌシと化した。担当の日は放送室で2人食事とか。
 あれ・・・?実は俺、便所飯に近い状態だったんじゃね?www
 大体の場合相方は女の子なので2人きりとかですのでゲフンゲフン
・嫌なこと・・・?顧問の片方が頭ごなしに否定する人で、確かに俺の提案は最悪だったが何が悪いのか
 指摘しないからどこをどう直せばいいのかわからなかった。所謂反面教師としたい記憶。


◆卓球・やきう
・なんとなく。団体競技だと他人に迷惑かかって(迷惑がられて)嫌だなぁという印象。
・授業中であるにもかかわらず全力で奇行に走っても問題なかった。
 大学入って1学期の卓球でもやはり奇行に走った。卓球って思わず声出るよね?ん?
・運動できない子なんだなぁっていうのをまざまざと見せ付けられる結果となったこと。


◆算盤
(略


◆塾
・①叔父が開成連れてってくれた。某先生に会う。曰く、「ここは頭のいい奴らが更に勉強して来る所」
 ②バカだから挑発と解釈し乗る。
 ③学校で「開成生に、俺はなる!」と宣言。周囲ドン引き。
 ④独学やってみたが厳しいから塾行くわ ← コレが直接の動機
・誰よりも苦手だった社会の資料集を、マニアックな程暗記して相当な知識量を蓄えたのを実感したこと。
 最初は恥ずかしくて泣いた。悔しくて泣いた。スーパー負けず嫌いです。
・嫌な奴っていうのは本当にいるもんだなと知ったこと。カンニングさせろとうるさい奴とか。
 何故か切れて壁に穴あける講師とか。 



★小坊時代、全体として―――

小学校時代は孤独だったんじゃないかと思い始めてきた。なかなかなじめてない様子がひしひしと(ry
ただ、少なくともやりたいことやってる。というかやりたい放題。
特に対女子に関しては――― 一番盛ってたのではないか位のレベル。
おかげで一部にはゴミのように扱われたり、親子会議発動までいったケースもありましたし、いやはや――

まぁ考えてみれば、ある程度頭よかったのは救いだったんですね。あいつ頭いいけどバカだよね、って
そう言われてた気がします。子供の頃ってさ、ただそれだけで人が集まったりするんだよね。

ともかく自分の欲求に対して超ストレートです。周囲がどうだろうがあまり気にしていない。結構自分勝手。





あぁ・・・あとあまり考えたくないけど・・・結構人の嫌がることやってからかうの好きでした・・・今も?
謝るのも嫌いでしたし・・・まぁ・・・ひねくれた性格ですよ・・・ガキなんですよね・・・振り向かせたい・・・
幼い愛情表現ていうやつなんでしょうかね。




まぁそんなわけで対人スキルはあまり芳しくなかったようでございます。

                                                next...中坊編
帰国
ちょっと戻って、思い出の旅行先特集


◆イギリス
余所見して歩いていたら鉄柵にぶつかって超頭痛かった。
飯はなかなかに質素。コーンフレークが一番おいしかったぜ。
ここにこの時期滞在したせいで未だに献血ができません。クロイツフェラーヤコブ病。通称狂牛病。


◆チロル
誰だか思い出せないが、日本人の滑降の選手に出くわした。初めてのスキー。
初めての夜行バス。初めての高熱。車酔い。初めての百人一首。
このトラウマのせいで、大学はいるまで夜行バスに乗れませんでした。


◆ギリシア、ミコノス島
親父がアテネでゲイに絡まれた。『ワタシ日本人大好き!』とかいう典型的怪しい外人もいた。
パルテノン神殿までの坂がしんどすぎた。あれって屋根はどうなってたんだろう。
宿はミコノスという小さな島のホテル。宿屋のおじさんが気さくでたくさん構ってくれた。
道で病気になったっぽい猫に会う。記憶にある中で一番古い猫。


◆オランダ、キューケンホフ
チューリップと風車の国。小学生にとってこれほど退屈な国もありません。
街中に自転車が多くてびっくりした。といっても日本の駅前なんかの方がよほど凄いけど。
今行ったら随分景色も楽しめるんじゃないかなぁ


◆フィレンツェ、シエナ
橋に家がくっついてる奴が絵本の世界みたいで感動した。しかし宿屋の隣はゲーセン。
暑いから窓開ける → ゲーセンうるさい → 窓閉める → 以下ループ

シエナのカンポ広場はとりあえず行った。うん行った。最近テレビで見てからそんなに凄いところだったのかとびっくりしたレベル。なんかこういうのばっかりでもったいない


◆ドイツ、フィンケンベルグ
スキー。スクールでイギリス人と仲良くなる。会話は片言の英語とボディーランゲージ。
この経験から「言葉とか通じなくてもなんとかなるさ」と人には言っています。
子供大会に参加。その彼に負けて2位。人生発のメダルです。


◆サルディニア島
東岸が有名らしいんだが(逆か?)そのま逆のリゾートホテルに長期滞在。
ミラノ在住の日本人家族と遭遇し、そこの子らとパターゴルフにテニスと遊びまくる
ダーツ大会に参加して一個も当たらないという奇跡を演じたり、イタリアの兄ちゃんたちのフットサルに混ぜてもらったりした。ラテンの兄ちゃんたちってほんと気さくでイケメン(色んな意味で)。しかも嫌味がない。
暇になりたかったらゴムボートもって海へ。プカーン
自分がすごした夏の中でもっとも贅沢な夏


◆ジュネーブ → アヴィニョン → カルカッソンヌ → ボルドー
夏2ヶ月をかけて南仏めぐり。途中、maisone la Romaine(綴り極めて怪)要するにローマ人の街に滞在。当然ローマって古代ローマのことです。遺跡めぐり。

Pont du Gare(ローマ人の橋)が強烈。あれマジすげー。ローマすげーって思ったのはあれが最初。

PontdeGard.jpg


注:でかすぎて収まらなかったのでクリックしてご覧下さい


アヴィニョンの修道院も一応見たはずだがよく覚えとらん。カルカッソンヌは城塞都市。
最後はボルドー行って、親父と一緒に学会一同で旅行。
その後長らくトラウマとなる牡蠣の初食。ゲロまずかった。泥臭い。
一緒にいた日本人家族の子供たちと遊んだ。



◆ドレスデン
平和教会、だっけ?が修理中で見れなかった。東ドイツだった部分が急速に発展しているのがわかる
まぁ正直ここにいたのはそんなに長い時間ではなくて、メインは次に行ったマイセン(あの食器の)だった。


◆グリンデルヴァルト
海外旅行をしていて一番日本人を嫌いになれる場所。雰囲気を全て日本語の看板やツアーの旗とおばちゃんたちが壊してくれおる。つかひところ中国人のマナーが悪いとか言ってたが日本人も相当だったぜ

霧の街から路線バスで高原を抜けて......開けた場所に見えてきたグリンデルヴァルド......そこに大挙して押し寄せてくる日本人ツアー客!!やめい!まじでやmてくれ!


◆ルツェルン
なんでか知らないけどクマ出没注意のTシャツ着ている人間がやたら多かった。
交通博物館で10時間をつぶすという暴挙。AlpNachStadtまでいって世界最急勾配の鉄道に乗った。
ココ行った時はただの鉄オタでした。



◆ラインの滝、ノイシュバンシュタイン城
まぁなんてことはない、「世界の歩き方」でも見てくれれば、そのまんまですわ。


◆ツェルマット
マッターホルンの麓にある観光地。ココまじ一遍いくことおすすめ。
ガソリン自動車の規制があり、街中は電気自動車しか走っていない。故に静かで轢かれそうになる
ゴルナーグラードに登ってモンテローザとか眺めてから下るハイキングがよか。まじでよか。


◆ベルニナ峠
サンモリッツからティラノへ抜ける峠。Ospizio Berninaはガケに向かってループで突っ込むという理解不能な部分がありもうした。標高2200mとかわけわからん標高にあるし



◆他にも色々いったはずだが地名が思い出せない。

どうでもいいが早く民法やらなきゃならないからここらへんで終わり~~
1995-1996


1995-1996の二年を思い出す。


色々なことがあったようで、また同時になかったようでもある。
ベルギーでの生活は5年目、6年目となり流石に慣れたというところだろうか。

あの頃の僕は日本に住むことなんてことを想像すらしなかった。

車でよく外国にでかけた。
ジュネーブからボルドーにかけて、南仏を回った。
サルデーニャで素晴らしいバカンスをすごした。
フィレンツェの夜はうるさかった。


どうも日本人とは付き合いが難しかった。
ひとえに僕が日本語に不自由していたのが原因ではないかと、今になって思う。
酷くイライラすることもあった。普段は仲いいんだけれどもね。


たまに・・・あのまま向こうに住んでいたらどうなっていただろうかと思うことがある。
想像もつかない。今現在の僕自身は、日本に来てからの僕でありすぎる。





そういえば学校(現地校ね!)の廊下で同級生の足を引っ掛けたことがあった。
単純にどうなるのだろうかという興味半分で、嫌いな奴の足をひっかけ・・・ひっかかった。

大激怒。その日から絶交。学校帰りにそいつの親襲来。その親にマジギレされる。

そいつはなかなかの野郎で「パパは警察官なんだぞ!パパに行ってお前を×%@※」とか言う・・・ほらさ・・・よく漫画とかに出てくるじゃないか・・・そういう子だったんだよ。
まぁ嫌いだったのはそこらへんのことを含めてもろもろだったんだろうけど・・・

案の定、そいつの親出動ってなわけで内心pgrしている自分がいたのを思い出します。


――結構しょうもない奴だね!!




ある時、日本人学校の他の子達とゲンク(ヘンク)という町を観光した。
すると通りすがりのおばさんが息子だか孫だかに、


「あれがヤパネーセ(日本人)よ。ヤパネーセは戦争に負けたから云々かんぬん」


唖然。
怒りたかった。でもなんて怒りゃいい?
泣きたかった。でもなんで中傷されて泣かなきゃならないの?


僕は日本人なんだ。






ある時、学校の先生が"Yatcha, ハラキリってのはあれは一体なんなんだい?"と聞いてきた。

ごめん、ハラキリとか知らないから。っていうかそんなことしてたのか日本人。
まじでカルチャーショック

「日本人なのに日本のこと知らない」





小学校4年からは現地の学校でフランス語を習い始める。
フラマンとワロンという、かの国における深刻な対立をまともに意識するようになる。

アイデンティティという言葉は、簡単な問題ではない。





ある時、一番仲のいい友達に手紙をかけという授業があった。あれはまいった。
別段誰かと凄く仲が良かったわけではなかったのかもしれない。

かと思いきや、自宅まで遊びに行くような奴らが何人かいたわ。
クレヨンしんちゃんのゲームボーイソフトが置いてあって感激した覚えがある。

チョコビとかwwわかんねぇだろオイww





1997年。ほぼ6年が過ぎた頃に日本へ・・・帰国?いや入国?どっちが正しかったのかな(笑)

つづく
閉塞感といふものかくなりけり


歳をとるたびに年の瀬は苦悩の時になる。

寒さは人を部屋に閉じ込め、部屋は翳る。

お気楽な性格だと信じていたのだが、次第に神経質になっていく。



「いやお前さん元々そんな感じだぜ」

そういう人もいるかもしれない。なるほどそのケはあったか。

次第に自分の中で2人が乖離していくような感覚なのだ。

私は私の言葉に縛られている。きっとうそう。と信じてる。



哲学者ほど高尚でもない。

世の人ほど精力的でもない。

そのくせ全てを抱えようとするからいけないのだろう。

もっと先にやるべきことがあるはずなのだが。



世の閉塞感が、そのまま僕の閉塞感となり

人の涙が、そのまま僕の涙となり

僕のコトバは受け売りで、



僕はどこへ行ったのだろう。



「死んだんだよ」という言葉が甘美な響きを奏でる。

恐らく全力で中二病という奴なんだろう。






細い道。誰もいない。孤独。それを選んだんだ。

僕が信じていないものは、きっと僕を信じていない。

僕は殆どのものを疑った、きっと何からもぼやけて見える






要するに小物の癖に、大物になろうとして、なれない。

けど大物を夢見る。

私は背負いたい。けどもっていけるキャパがない。






あるいは、おはなしの、ヒーローの、周りに出てくる、しょーもないけど、

物語に花を添える、そんな人間になりたかった。

きっとそれが、僕の欲する姿だった






企画面倒になった


というわけで思索





我々が生きる上で欠かせないものは





『誇り』





なんじゃないかと思うのである。





いや、『心地よく生きる上』でと限定されるかもしれない。





誇りは・・・その本質は満足であるように思う





他人の評価でもよし、
或いは完全な自己満足でもよし





誇り・・・プライドという言葉はnegativeだろうか





失くせば卑屈
余れば高慢





この難しさが、そのまま統治の難しさであるような気がする。





 





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