湘南色はかぼちゃ色
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閉塞感といふものかくなりけり


歳をとるたびに年の瀬は苦悩の時になる。

寒さは人を部屋に閉じ込め、部屋は翳る。

お気楽な性格だと信じていたのだが、次第に神経質になっていく。



「いやお前さん元々そんな感じだぜ」

そういう人もいるかもしれない。なるほどそのケはあったか。

次第に自分の中で2人が乖離していくような感覚なのだ。

私は私の言葉に縛られている。きっとうそう。と信じてる。



哲学者ほど高尚でもない。

世の人ほど精力的でもない。

そのくせ全てを抱えようとするからいけないのだろう。

もっと先にやるべきことがあるはずなのだが。



世の閉塞感が、そのまま僕の閉塞感となり

人の涙が、そのまま僕の涙となり

僕のコトバは受け売りで、



僕はどこへ行ったのだろう。



「死んだんだよ」という言葉が甘美な響きを奏でる。

恐らく全力で中二病という奴なんだろう。






細い道。誰もいない。孤独。それを選んだんだ。

僕が信じていないものは、きっと僕を信じていない。

僕は殆どのものを疑った、きっと何からもぼやけて見える






要するに小物の癖に、大物になろうとして、なれない。

けど大物を夢見る。

私は背負いたい。けどもっていけるキャパがない。






あるいは、おはなしの、ヒーローの、周りに出てくる、しょーもないけど、

物語に花を添える、そんな人間になりたかった。

きっとそれが、僕の欲する姿だった






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企画面倒になった


というわけで思索





我々が生きる上で欠かせないものは





『誇り』





なんじゃないかと思うのである。





いや、『心地よく生きる上』でと限定されるかもしれない。





誇りは・・・その本質は満足であるように思う





他人の評価でもよし、
或いは完全な自己満足でもよし





誇り・・・プライドという言葉はnegativeだろうか





失くせば卑屈
余れば高慢





この難しさが、そのまま統治の難しさであるような気がする。





 

小学1年
小学校1年。ヨーロッパの学校なので新学期は9月に始まった。

新学期早々、学校行事で走ることになった。
僕の通っていた学校は公園の中にあった。公園の真ん中をドブ川が流れており、
川を挟んで両側にオランダ語系の学校とフランス語系の学校があった。
早い話、これは両校の合同行事であった。

ところがまぁ僕がベルギーを去る小学校4年までの4回、
一度たりとも向こうの学校と親交をもった覚えがない。
何かあったわけでもないのに嫌いな対象であった。

大会自体は...走ること、もとい運動がまるでだめおな人間なんで・・・


秋、自転車で公園内の坂道をすっとばしていたら(結構急な坂があった
なんかの拍子にハンドルのコントロールを失って派手に転がった
そしたら顔面と両手の甲にでっかいかさぶたができるはめになりましたとさ
(熱さまシート大のかさぶたを想像していただければ・・・)


4月。日本人学校の補習校に通い始める。
海外経験のある人は分かると思いますが、月曜日から金曜日までが全日校、
そして普段は現地の学校に通っている子の為に土曜日に開いているのが補習校です。

なにはともあれ、僕にとっては初めてといってもいい【ベルギーの日本人仲間】
であった彼らとの出会いは新鮮だった。

彼らの親の多くは、商社などに勤務していて海外駐在している人であり、
今思えば超がつくレベルの凄い人たちだったのだと思う。


ちなみにともかく勉強はできなかった。

国語なんて50点超えたらば万々歳
算数が世界共通なのが救いでした
多分そんなわけで算数が一番好きになった

さらに授業態度は今でも十分問題児として通用するレベルであり、
通知表が来るたびに先生からの一言欄が恐怖の対象であり続ける日々・・・
友達の中では特にのちのち再会することになるH.Hという男がイカす奴で

先生に向かって「先生どうせバイトでしょ?」とかいう始末
その頃は完全に【やべぇHさんまじパネェっす】なDQN脳だったので一緒に悪ノリ
そして通知表で逆襲されてお袋ぶちぎれるのルーティンな一年でした。

この頃テニススクール、絵描き教室、茶道教室に通ったり、国内のあちこちにでかけた。
お袋は教育熱心だったんだと思う。ありがたい限りだが、どうも稽古ごとは続かなかった。



1994年の夏、一時帰国した。
ベルギーの夏休みは7月1日から8月31日までかっきし2ヶ月あるので、
それを利用しての帰省となった。1994年の夏と言えば水不足

クソ暑い夏は初体験だった。母方の実家がある木曾で2ヶ月の大半を過ごした。

朝起きて外を走り回り、
昼飯を食っては外を走り回り、
カエルを捕まえては生き埋めにし、
青大将を見つけて石を投げて年寄りに怒られ(ヌシだとかなんとか
いとこと三輪車で坂道をかけおりてトラックにひかれかけ
生まれて初めての台風を経験し
頼み込んで2週間くらい学校に通わせてもらい(雪国の夏休みは短いのです)
相撲大会で一回戦負けし、

図鑑に載っている電車に初めて乗って(←結構重要
っていうか日本語の本が鉄道図鑑しかないとやたら詳しくなるのはしょうがないです><


帰ってきた。


ベルギーの学校では年度末(7月)にテストがあって、結果次第では留年が決まる。
8月には保護者面談があって、結果が知らされ、無事進級。

太っちょのケヴィン(ケヴィンは二人いた;どっちもいい奴)と愛しの(笑)エルンストが
凄く頭の良い子たちだとかいう情報を耳にする。


→ 頑張っちゃうもんね!(超絶単細胞


そんな小学一年生。友達はようやく20人?


なんか続編


1992年。4歳。

プールの授業が始まる。余裕でぽっちゃり系だったので沈む沈む。
ともかく運動が苦手だった。
靴紐を結ぶ練習を皆でやった時、クラスで一番最後になった。言うまでもなく不器用だ。

女の子が転校して来た。ひ~と~め~ぼ~れ~

その頃から学年内で珍獣としての地位を確立する。
ようやくオランダ語にもなじみ、漫画が読めるようになった。
廊下で鬼ごっこをして転び、前歯が1本吹っ飛んだことがあったが、鬼ごっこして遊べるようになった辺り、コミュニケーションできるようになったのかもしれない。

クラスに一人障害児がいた。今となってはもう分からないが、たぶん軽めの知的障害だった。
はっきり言って人に害を成すような奴じゃなかったのだが、たまに暴れるので対応に困った。
確か名前はSandraだったか。とってもあいまいな記憶。

みんなが寄ってたかっていじめてるシーンに出くわし、『お前もやれよ』と言われて蹴ってしまった。
そのことをものすごく後悔した記憶がある。やらなきゃ僕が孤立するって思ってた。
やがてSandraは転校していった。恐らく障害を抱えた小学生が通う学校へ行ったのだろう。

彼が最後に学校を去る日に、彼と彼の母親に会った。
突然Sandraの転校を聞かされた僕だったが、ちゃんと謝れたのだろうか。記憶が曖昧なのが憎い。
僕は謝るのが苦手だった。だから・・・・・・未だにSandraのことは僕にとって暗い記憶である。



1992年と言えばバルセロナ五輪。母親とテレビで男子マラソンを見た記憶だけが残っている。
タニグチ!タニグチ!って応援してたらタニグチ選手は転倒してしまった。



この年からクラス写真が残っている。好きな子の隣に立って写れて、凄く嬉しかった。




こうして僕の4歳は過ぎていった。
振り返ってみるてすt


思い出は美化される。美化されるだろうが、そこに僕の基礎はあるはずだ。

今「キソ」と打って「起訴」と変換された瞬間、正直嫌な気分になった。
どうしてそこまで法学が嫌いなのか。それにもまた理由があるはずだとは思う。


たかだか20年しか生きてきてないのだが、この20年間から見える僕の姿があるはずだ。


ということで、世の人もすなる自己分析といふものを、我もしてみむとてするなり、と。
こういう流れになるわけである。まぁ分析するに至る前に、今晩も寝れないから思い出を書くわけだ。
だからきっと、ここでの文章は自己分析なんかにはならないし、自分を晒すことに軽く喜び感じちゃってる変態趣味が満たされるだけだと思う。




◆幼稚園

・とりあえず、アジア人=中国人、と思われている世界に暮らしていた。
オランダ語の慣用表現に"まるで中国語を聞いているようだ"という言葉がある。
『お前の言ってることはてんでわからない』という意味で使われる。
要するに、アジア人なんていうのはてんでわからない奴ら、別世界の奴らっていうことらしい。

だからといって別にいじめられた記憶はない。
ただよく覚えているのは、最初は一人で電車ごっこを延々と繰り返していたことだ。

まぁ子供同士だし、喧嘩になることもあった。
言葉も通じぬ変な奴が一人、校庭で独り言を呟きながら走っているのだ。
正直僕が彼らの立場でもちょっかいの一つや二つ、出したくなる。
だが僕はもともと冗談のジの字も通じぬ石頭であり、さらに喧嘩は滅法弱い
さらに言葉が通じないときたもんだ。なかなかにいじめがいがある。

となると先生に助けを求めることが必要になるのだが、そこは先生、ハンデ一切無視
『Yatcha、ちゃんと言わなきゃ何が起きたかわかるはずがないじゃないか!』

そんな理由で、僕が最初に覚えた言葉は”Juffrouw”だった。
”Juffrouw Paskal”でパスカル先生(女性)という意味だ。



当時は印刷屋の2階に間借りする形で住んでいた。
Brusselse Steenweg43 Wemmel1780

道路の名はブラッセルの石の道。石の道とは即ち石畳の道。
アッピア街道を思い出していただけると分かりやすいかと。
今思えば身近に歴史ロマンがあったわけだ。



道の向かいにはギリシア料理屋があり、たまに儀式だかなんだかで皿を割る。
その音がやたら激しいのと、そこの家の車が凄いボロかったのを覚えている。
ボディはベコベコ、窓は一部ダンボールで代用していた。



1991年のクリスマスには隣の銀行が強盗にやられた。
初めて迎える異国の地でのクリスマスは、警報機の音と不安の中で迎えた。



僕の3歳というのはそんな日々だった。


振り返り不足DA!・・・キラッ☆


しょうもない題名からこんにちは~こんにちは~社会の窓から~(下ネタ自重しろ


歳をとり牌を持つ感覚が薄れつつあるじんぼくです、皆様はいかがお過ごしでしょうか。


某新聞社にいってまいりました。で、部屋に案内される。で、


  ○  ○
  [ 机 ]

[ 机 ][ 机 ]
● ● ● ●


面接官2人に就活生4人か・・・。















あれ?















今日ってなんか会社訪問とか悩み聞きます的な趣旨と伺っておりましたが・・・

まさか・・・!これが世に言う「察する力が不足している」という奴か!危機管理能力か!

そんな・・・!馬鹿な・・・!こんなことが・・・こんな・・・許されるわけが・・・!






というわけで前置きが長くなりましたが面接でぽしゃるということをリアルに体験してまいりました。






毎週土曜24:00~ 『愛しの仕事さま。』 


っちゅう番組があって、模擬面接受ける学生がタジタジになっているのをみて軽くpgr気味だったのですが。





アンパンマンはpgrなのは君っさ~~





まぁそういうことです。関西人のテンションの高さに救われた一日でした。





志望動機とか文章にして考えてみるスレ・・・は立ちません




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